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余暇というものをどう考えたらよいという問題について、哲學的問題をせよというのが新聞社が私に與えた課題である。余暇の問題は、漸次重要な問題になってゆく。なぜなら、科學技術の発展とともに、生産力は向上し、人間の労働時間が短縮するのは、資本主義國と社會主義國とを問わず、科學技術を採用している現(xiàn)代の文明のたどる必然の方向であるからである。むしろこのことはよいことである。なぜなら人間が、衣食の心配から解放されて、自由な時間を持つことは、何よりも人間にとって望ましいことだからである。
? かつて人類にとって、自由な時間は、贅沢以外の何物でもなかった。なぜなら、人類の大多數(shù)が、生存を維持するために労働を余儀なくだれているとき、どのような労働に従事しない人間は、それだけで、罪を背負っていたからである。したがって、自由な精神的仕事に従事する宗教家は、自ら物質欲と性欲を絶った。つまり禁欲を自由な精神生活の代価として支払ったのである。ここでは、閑暇はまったく少數(shù)もの例外物にのみゆるされた特権であった。もとより人類は、今までこのような労働中心主義的価値観に生きたが、特にこのような価値観を強く持っているのは近代西洋文明であり、日本人が、このような価値観に徹底したのは明治以後であると思う。徳川時代においては労働と當時遊びの価値を評価する視點がまだあった。
? 關于閑暇應該怎么看?用哲學的考察來回答這個問題,是報社交給我的一個課題。閑暇問題將逐漸變成我們社會的重要問題,這是因為隨著科學技術的發(fā)展,生產(chǎn)力的提高,人們勞動時間的縮短,不管是資本主義國家還是社會主義國家,都正在采用科學技術,這是現(xiàn)代文明所追尋的必然方向。不用說這是一件大好事,因為對人類來說,沒有什么比讓自己從衣食之憂中解放出來,擁有自由的時間更為理想的了。
? 從前,自由時間對人類來說堪稱奢侈之物,除此之外它什么也不是。這是因為,當人類的大多數(shù)為了維持生存而不得不從事勞動時,那些無須從事這樣勞動的人便因此而背負了罪名。因此,從事自由的精神工作的宗教家,只能自我斷絕了對物質的欲望與性欲。也就是說,他們?yōu)榱俗杂傻木裆疃冻隽私拇鷥r。在這里,閑暇完全是少數(shù)佼佼者才可能被允許的特權。我認為,人類原本一直生存在這種以勞動為中心的價值觀中,尤其是這樣的價值觀為近代西方文明所強力推崇,而日本人則是在明治維新之后,才徹底擁有這樣的價值觀。在德川時代,對既勞動也玩樂的價值觀,也曾有過予以肯定評價的觀點。(摘自網(wǎng)絡)
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